昭和19年 中学2年になって間もなく、私達は学徒動員の命令が下りました。
博多駅(現在の祇園町)から東比恵を通り板付へと急ぎながら毎日働きに行きました。
叺〔 (カマス)筵を二つ折りにしたような物=お米を入れる俵 〕に縄で紐付けて竹の
棒を通して、前と後ろ二人一組で担ぎました。
作業は堰堤壕(エンタイゴウ)作りです。土盛りをして コの字型に土手を築きます、
この堰堤壕は、この中に飛行機を格納して敵の爆撃から損傷を防ぐ為に作るのです。
夏の炎天下の作業でした、大きなバケツに氷を浮します、水は貴重でしたから、自分の
欲しいだけの量を柄杓に汲んで、余り水が無いように全部飲んで一滴も捨てません。
水は下臼井の民家にもらいに行きます、広々とした飛行場の敷地内から民家迄は相当な
距離があり交代で貰いに行きます、往復に30分以上掛かります、この様な状態だから
水は貴重品でした。
アメリカ兵の捕虜も働かされて居ました。足には鎖が付けられて居ました。
中には下痢で服を汚した侭で働いている人も有りました。下痢をするのは尤もとだと
感じました、何故ならばコウリャンを搗かずに、そのまま焚いて食べさせて居ました。
便は赤いコウリャンが粒の侭、消化されずに排泄されていて、可愛そうに感じました。
夏の終わり頃 今度は飛行機の組立に香椎の軍需工場(九州飛行機)へ転換されました。
AGE|c001
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by tasumi2
| 2005-07-05 09:15
| 学徒動員